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Nikkei225オプション日記

日経225オプションをこよなく愛するためのサイト

ゴミの減量化は歴史的役割を終えたのでは? 最終処分場(一般ごみ)の残余年数は目下、上昇中。

データには一応、当たってみるものなのだなあと本当に思いました。

本来、地方税の枠内で処理されるはずのごみの処分費用が、有料袋という形で住民に転嫁される。民間の自由な経済活動の中で流通業者が無料で配っていた便利なレジ袋を行政がわざわざしゃしゃり出てて、有料化になるように促す。行政にとって、ゴミは自らが処理するものではなく、住民が減らすべきものであるというご託宣。地方議員はそれをおかしいとつゆとも思わず、むしろ行政側の掲げた減量化目標の進捗率が芳しくないことを批判するばかり。住民が望む方向と真逆に政治が進んでしまっているのではないか。何かが倒錯してしまっているのではないか。単身のサラリーマンにとって、このごみの処分の問題は、日々の生活に本当に重くのしかかっています。

ごみ有料化の目的は、最終処分場のひっ迫の解決だった

なぜ、ごみは有料化されたのか、なぜダストボックスが廃止(2010年2月東京都府中市を最後)され、個別回収、細かい分別回収を今も続けているのか。この答えを国内的に突き詰めていって辿り着いたのは、当時の「ゴミの最終処分場のひっ迫」という問題でした。当時、清掃工場で焼却された灰については、処分場にほぼ100%埋め立てるしかなく、しかも、その灰に有害物質(特にダイオキシン)が含まれるというパニック的な報道も相次いでいました。ゴミは埋め立てねばならないにもかかわらず、新たな最終処分場の建設が政治的に極めて難しい。そういった時代趨勢のもとでは、ごみを減量化しなければならないという考えには確かに一定の説得力があったと思います。

技術のコペルニクス的転換。焼却灰を埋め立てせず、100%再利用

しかしながら、時代は変わりました。ダイオキシンの毒性について、私は否定的な考えを持っていますが、それはさておき、焼却炉の進歩によってダイオキシンは高温で焼却して死滅させることができるようになりました。そしてついには焼却灰に科学的処理を施し、セメントとして再利用するエコセメントの技術が太平洋セメントによって開発され、現在、東京都の多摩エリアの最終処分場では、一般廃棄物の焼却灰はほぼ100%エコセメントとなって再利用(リサイクル)されています。焼却灰はもう、最終処分場に埋め立てる必要がなくなったのです。技術のコペルニクス的な転換が図られました。。

エコセメント事業の目的│エコセメント事業│循環組合エクスプレス

最終処分場の「残余年数」が上昇している事実

ゴミの最終処分場のひっ迫度合いを示す「残余年数」という指標があります。わかりやすく言うと、現在ある処分場があと何年ゴミを埋め立てられるのかということを示すある種のタイマーのような指標です。先日、小池東京都知事がレジ袋の有料化をすすめようというニュースがあり、私はささやかなる抵抗を試みようとごみの最終処分場の問題について調べていくうちにこの「残余年数」という指標にたどり着きました。何とこの指標は近年ずっと上昇を続けています。毎日のようにゴミが最終処分場に搬入されているにもかかわらず、何と残余年数が伸びているのです。

(環境庁「一般廃棄物の排出及び処理状況等(平成25年度)について)

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「残余年数」とともにプロットした「残余容量」とは、最終処分場に後どのくらいの容量のゴミを埋め立てられるのかということを示しています。残余容量は年々低下しています。一方で、残余年数は右肩上がりを続けています。ごみの捨てる場所(最終処分場)が確保されていないにもかかわらず、残余年数が増加しているのは、要するにゴミがリサイクルされ、最終処分場への埋め立て量が激減しているということなのです。つまり、エコセメントを代表とする焼却灰のリサイクル化が成功しているということなのです。一部の狂信的な環境運動家にとっては不都合な現実ですが、これは事実なのです。勿論、産業廃棄物ではなく、家庭のゴミ(一般廃棄物)に限ってのことなのですが・・・。

自己目的化したごみの減量化、ごみの有料化

最終処分場の問題はエコセメントというリサイクル技術の誕生により、現在はほぼ解消されています。したがって、それを根拠にして自治体で現在もなお目標とされるごみの減量化や容器包装リサイクル法、改正容器リサイクル法といった一般ごみの環境法制は、存在意義を今や失っている状況です。にもかかわらず、ごみの減量化、ごみの有料化を進めようとする行政や政治の動きに変化はありません。一度法律が制定され、制度や政治的空気が醸成されてしまうと、中々後戻りできない。日本の政治の悪い点です。技術で環境問題が突破できたのに「エコ」というキャッチフレーズの下、行政や政治のリソースが永遠と投入され続けています。手段がいつのまにか目的になってしまう自己目的化の状況が現在もなお進行しています。

減量化ではなく、ごみの処分能力を競うべき

一般家庭からでるゴミについて、焼却した後の焼却灰についてリサイクルがほぼ完全になされているのであれば、自治体は生ごみの含水率を減らすなどという些末な取り組みよりも、むしろ一般家庭から排出されるごみを無料できちんと処分できるサービス、能力の向上にこそ努めるべきではないでしょうか。捨てにくい細かい分別ルールを住民に課して、住民の部屋をゴミであふれさせたり、減量目標を達成するためにわざわざ有料のゴミ袋を売って、地方税にさらに上乗せした二重の負担を住民に課すのは時代に完全に逆行しています。ゴミを普通に捨てられる進んだ文明社会を取り戻すため、政治を動かす必要があるのではないでしょうか。

20年ほど前、文芸評論家の江藤淳さんが、文芸春秋でゴミの分別のばかばかしさを嘆いていたことが思い出されます。日本人がこんなことに多くの時間を費やしていたら、人生がだめになってしまう、文明の進歩が遅れてしまうというような内容だったと記憶しています。環境問題を決してないがしろにするわけでは決してありません。ただ科学技術がこれを解決したのなら、中身のないエコというキャチフレーズよりも技術による進歩の利益を社会や生活する人々が享受するのはごく自然なことだと思います。