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都知事選の野党共闘とルイセンコ論争(コラム)

「疑わしきは罰せず」という考えを厳密に自己の行動指針としている人々に私はこれまで会ったことががない。法律の理念や理屈が、現実の人間の振る舞いや生き方に合わないのであろう。人間という種の進化の歴史なのであろうか、ある人が疑わしいとされた場合、疑いを持ってかかる、先入観に支配されてしまうというのが大多数の人間なのであろう

今回の都知事選において鳥越俊太郎を現在まで応援してきた民進党共産党の政治家、支持者たちは、疑いや先入観に自分の考えが支配されることはなかったのだろうか。あるいは、そうした疑いや先入観を乗り越えることができたのであろうか。もしそうだとすれば、失礼を承知で言うが、支持者の方々は気味の悪いロボットのようである。

私は鳥越俊太郎を支持した方々を気味の悪いロボットではなく、温かみのある人間であると思っている。そして、そう思っているからこそ、比較的硬派でならした週刊誌メディアから齎されたスキャンダル報道を乗り越えられたのは、「疑わしきは罰せず」といった建前の論理ではなく、私は別のところにあると考えているのだ。

私が思い浮かんだのは、ミルグラム実験という心理学実験と共産主義のもとで科学が捻じ曲げられていったルイセンコ論争の2つである。ともに権威や権力に対する人間の種としての弱さを確認したものだ。他人を電気椅子に括り付けて拷問することに心理的抵抗もなく従い、共産主義の下では小麦がよく育つといった考えに反発することもしない。人間は一定の条件下では、倫理も道徳も無視することになんの後ろめたさもない。

カエサルは人間に対する深い洞察から「多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」という言葉を残している。

結局のところ、イデオロギーを中心とした勢力の組織構造と権力構造はナチズムや共産主義と同様、全体主義構造として類型化され、そうした構造下で運動に参加している人々は誰でも、アイヒマンやルイセンコに従った科学者になり得るということなのではないだろうか。イデオロギーのために事実を捻じ曲げる、イデオロギーのために見たくない事実を見ようとしない。運動の仲間は無罪。

勿論、右から左まであらゆる政治運動にこうした側面があるのかもしれない。では何を持ってこうした政治運動の危険に対抗すべきなのか。

今考えられるのは、政治運動と切り離されたジャーナリズム、もう一つは日本社会の中で世間と呼ばれるもの、最後に政治と切り離された天皇制というところに行き着くのではないだろうか。

世間、天皇制については、まだ私の考えが固まっていないので、今回は割愛し、日本のジャーナリズムについてだけ述べる。

端的に言うと、日本のジャーナリズムは、政治運動に加担しすぎており、危険極まりない。全体主義を止めるどころか、このままだと有事の際増幅させてしまう。政治運動にのめり込んでいる記者、編集者があまりに多く、政治運動の延長として社員を採用しているくらい酷い状況だ。憲法を改正するのであれば、公務員と同様、報道機関職員の政治活動の禁止を求めたい。